『ゆれる』西川美和トークショー 2007年4月7日(土)横浜西公会堂

ゆれる

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映画『ゆれる』の小説版が第二十回三島由紀夫賞の候補になりました。結果は残念ながらあと一歩及ばずでしたが、候補になっただけでも素晴らしい。遅ればせながらおめでとうございます。とうわけでちょっと前の話になりますが、横浜キネマ倶楽部主催の上映会に『ゆれる』監督の西川美和さんをゲストに迎えてトークショーが行なわれました。映画『ゆれる』の上映は二回、その間にトークショーが入る構成で、トークショーのあと映画を観ようとしていた人は気の毒になるくらいネタバレ炸裂でしたが、まあ仕方ねえ。そのときの模様を書きますので当然『ゆれる』の内容に触れまくるので観てない人は読んではいけない、絶対にいけないんだ。んあぁいけないには決まっている。
2007年4月7日(土)横浜キネマ倶楽部第5回上映会『ゆれる』 西川美和トークショー 横浜西公会堂

横浜西公会堂は横浜駅から真っ直ぐ東急ハンズを突き抜けて一本大きな道路またいだ所にあって、こう道路一本でこんなに静かになるのかという感じ。学校の横にあり手書きの看板を横目に会場へ。300人は入りそうな立派な講堂にて映画『ゆれる』の上映が14時と18時の二回、合間の16時10分から17時まで西川美和さんのトークショーが行なわれました。聞き手は横浜キネマ倶楽部会長の伊藤幹郎さん。この方弁護士をされていまして、この横浜キネマ倶楽部が設立されるに至った生ぐさいあれこれの弁護をされたそうです、このあたりは各自調べてどんよりしてください。この伊藤幹郎さんはあまりこういった場に慣れていないみたいでしたが、これが後々効いてくるんだからなにが幸いするかわかりませんね。舞台にはパイプ椅子が二脚ハの字に並べてあるだけのシンプルスタイル。司会の女性の方のたどたどしい紹介に続いて両者入場。西川美和さんは短めの茶髪無造作風ながらしっかりはねを計算している感あり。洗いざらしの白いカッターシャツ、インナーは紺、ブーツカットジーンズに黒の尖った靴。パイプ椅子に座ってこんにちは。伊藤幹朗さんの第一声が「可愛いですねー」なのだから、全面降伏だよ。そして伊藤幹朗さんの自己紹介から入ります、映画との出会いとかあんまし覚えてません。ここからは当日のメモを頼りに箇条書きの敬称略です。

「生い立ち」
高校まで広島県広島市で過ごし、一浪して早稲田大学第一文学部に進む。幼少の頃から文章を書くのが好きで、直接話すよりも相手に伝わるような気がする。将来は小説家、ルポライターになりたいと思った。早稲田を選んだのはブランド志向である。高校時代に影響を受けた作家は坂口安吾で、特に『堕落論』の「生きよ、堕ちよ」に衝撃を受けた。映画は、はじめて観たのが『スターウォーズ帝国の逆襲』ちょっと恥ずかしい。ハリウッドの派手であまり中身の無い作品全盛の時代。中学に入って自分が生まれる前の作品『大脱走』などを観るようになる。

「なぜ映画を志したのか」
映画といえば外国映画というような風潮があった。日本映画は軽視していた。しかし上京後、川島雄三の『しとやかな獣』を観る。これをきっかけに以降どんどん(おそらく名画座通い)観るようになった。

「映画界に入るきっかけ」
なんとか映画に関する職業に尽きたかったが、10年ほど前は日本映画が良くなくて、新卒採用をしていないところがほとんど。テレビ製作会社のテレビマンユニオンの面接を受け、是枝裕和と二対一くらいの人数になったとき、是枝が今度映画(『幻の光』かしら?)を作ろうと思うという話をした。西川は自分は映画をやりたいのだという話をする。結局テレビマンユニオンは落ちるが、後日映画に参加してみないかという電話が来て、フリーとして参加、すぐにカチンコを打っていたという。

「フリーだと定期的な収入は無いわけですが」
いまもフリーです(会場笑い)。当時月給八万円で、それでも女性だということで気を使っていただいた。男性は撮影所に寝泊りしていた。そういう環境を耐えた人が続けて行くのだと思う。今考えればそういう環境はよろしくない。一般の幸せ(結婚・車を持つ・ペットを飼うなど)を一旦あきらめてみようと考えたら、楽になった。(ここの貧乏話はもっと生臭い話があると思いますけど、だって月八万円の収入だけではね。いずれ西川美和さんの手によって映画化なり文章化されることを願います)

「28歳で第一作『蛇イチゴ』を撮る」
人とのめぐり会いが良い。助監督をやり続けるのは、ある意味楽。プロデューサー(是枝とは言っていない、あえて言わない?)が撮ってみないかと声をかけてくれた。助監督をやりながら、フリーなのでまとめた休みを取って企画や脚本を作っていた。

「ここから『ゆれる』について」

『ゆれる』
2004年秋に撮影、暮れには完成。ということはテレビの『アンフェア』は2006年1月10日から2006年3月21日まで、火曜日22:00〜22:54(初回は22:10〜23:14、最終回は22:15〜23:24)なので、香川照之さんの神がかり演技はこの助走が効いたのか。さて伊藤幹朗さんいきなり掟破りの質問からはいります。

「この映画でなにを言いたかったのか」
それが言えれば映画にしない。製作のとっかかりとして”私は私が把握している私だろうか?”、”あなたは〜?というのがまずはじめにあった。

「二組の兄弟。地方と東京という設定は?」
近い関係ならばなんでもよくて、何の気なしに兄弟。でもいろんな作品に書かれているしこのテーマは書いていて手ごたえアリ。

「つり橋のシュチュエーション」
夢で見た。知り合いの男性が女の子と滝を見物している。滝つぼを覗く女の子、あぶないと手を差し伸べるとやめてよと拒絶される。滝に落としてしまう。それを目撃している自分(西川)。自分が黙っていればいい、でも男性の様子がおかしくなる、精神衛生上良くないので自首を薦めて、男性はそれに従う。でも面会に行くと人が変わったようで、女の子の悪口を言ったりしてひええ。夢に感謝しています。

ちょっと余談も書いておきます。
伊藤、ここでこのつり橋での一件シュチュエーションを誉める。完全ネタバレをしながら解説。オダギリジョーは見ていない、真木よう子は勝手に落ちた。となれば執行猶予つきの過失致死罪。でもオダギリが香川が落としたと証言したので、殺人罪となった。懲役は十年、でも行ないが良かったので七年で出てきた。このあたりさすが現役弁護士、まあこれだけは言おうと思ったのでしょうが。

二年後には日本でも裁判員制度が始まって、選挙権のある人は参加することになる。テストでやってみましょうと、無罪だと思う人、有罪(過失致死・殺人罪はともかく)だと思う人を挙手させる。会場は無罪が多かったみたい。なるほど殺人事件となるとイベント性が強くてちょっとワクワクしました。痴漢だとこうはいかない。

撮影時には共通の見解を持っていた。突き倒したときには殺意はあったが、そのあと起こそうとしたときは殺意は無かった。だがそれを真木よう子は嫌って後ずさりをして結果、つり橋から落下して溺死した。過失致死罪というのが共通の見解。伊藤は”未必の故意”とかいう言葉を持ち出してエキサイトしそうになるが、法律側からの解釈はここまで。

西川は、でもずっと放っておいた真木よう子を(オダギリジョー)寝取られた。殺意に近いものはあったのでは?そういう共通見解を持っていたのに、香川照之は撮影が終わるまで「俺はやった」といっていたという、どうだい素晴らしすぎるエピソードじゃないか。

「ラストシーンはどう解釈すればいいか?」
観る人にゆだねたい。あのあとバスに乗らず兄が残っていても、ハッピーエンドにならない。何らかの希望を残すにはあそこで切るしかなかった。

「次回作について」
ゼロから脚本を書いている。家族から半歩離れる。医師の話。死・老いをテーマにする。両親は健在。兄弟は兄がいる、兄も東京で好き放題やっている。

一時間弱のトークショー終了。花束贈呈、やや間が持たず、オロオロがキュート。退場。作品を撮った後書いた小説『ゆれる』のサイン会がロビーでありました。ということで駆け足でしたけど、「この映画で言いたかったことは?」「ラストシーンの解釈について」なんていうのは、逆にこういう場でないと聞けませんわね。あとはやはり貧乏時代にどうやってサバイブしたのか聞いて欲しかったですね。私などは「おまえ絶対にその美貌に生かされただろう詳しく聞かせろヤイヤイ」と邪念を送りましたが、洗いざらしカッターシャツに跳ねかえされてしまいました。天は二物を与えちゃったんだよ参るよ。